もし目が縦についていたら(パスカル)
エッセイ
右目で太平洋、左目で大西洋
朝の散歩しながら目を擦っているうちにヒリヒリし出し涙が止まらなくなった。大丈夫だろうと思いながらも大事を取って目医者さんに行って来た。T先生は名医〔眼医〕何時ものように大変な行列である。漸く自分の番で呼び出されると看護師さんから事前に様子の聞き取りがあり、痛くないほうの目の眼底測定があった。顕微鏡らしきもので検査した結果がモニターに映し出された。はっきりとキズが着いているのが見える。早く来て良かったと思った。
片目で運転してきたら、遠近感が取れずに運転が怖くとても疲れた。家に着いたら吐き気まで起こしてしまった。両眼の存在意義が今更ながらによーく分かった。たった10cm前後の左右の眼の離れが遠近感を獲得するのである。そして対象物までの距離を計測するのである。近くは読書距離から遠くはお月さんの距離感をつかむ能力を持っている。凄いことだ。
パスカルが言った:人目が縦についていたら人は神と人間との関係をもっともっと考えただろうが、しかし、水平についているから人と人を比べてしまう習性ができた。
A君はB君よりは2センチ高いとか言って優越感・劣等感に浸ったり・・・・予備校時代、授業終了後に気分転換するために6階建ての屋上から真下を覗き込み、人の背の高さを当てるゲームをやったことがある。一般には歩幅が広い人の方が背が高いのであるが、そうばかりではない。複数人が歩いていて、背の高い人を 当てっこするのであるが、中々当たらない。ましてや、どの位の差があるだろうかということになればもっと分からない。つまり、真上から見ている神様は私たち人間をなんら差別すること無く平等に見ているということになる。鼻の高さの比較能力はあるかもしれないが!
「フクロウは鳥らしくない鳥である。夜行性と言う事もあるが、その何と言うかその顔つきが鳥らしからぬ。」で書き始まる“うたの動物記”〔小池光氏:日経新聞20091206〕には動物達の眼のことが書かれていた。「顔は思い切りまん丸で、二つの大きな眼が平面上の左右につく。動物の眼は多くの場合こうなっていない。夫々の体の側面についていて、ということは、左眼右眼の光景はいささか別であろう。マッコウ鯨など最たるもので右眼で太平洋を見、左眼で大西洋を見るである。よくも混乱しない。フクロウは左右で同じものを見ることによって遠近感を得、獲物までの距離を測定し、正確に襲撃するのである。
このように距離感は左右で同じものを見なければならない。「左ヒラメに右カレイ」と言う。不思議な魚だと思っていたが遠近感・距離感をつかむためには左右の両目が胴体の同じ側にあるのも道理にかなっている。目だけでは無く耳もそうである。両耳で遠近感を得、音源までの距離を測るのである。この様に人間の身体は実に良く出来ている。そして二つを配置されている意味がよ~く分かった。がってん!がってん!である。
治療中は眼帯をつけていた。当たり前だと思っていたことに改めて感謝シーンを垣間見たことであった。