“よいんどんの父ちゃん=ヨイドさん”がやってきた。
エッセイ
名は体をあらわす。ニックネームはその時代の状況・情況を一瞬に共感させる力を持っている。
イッヒ ウント ドゥー:(Ich und Du)
第一人称・二人称・三人称・個称VS総称
人を呼ぶ時に、夫婦であると、オイと呼んだり、アンタと呼んだりする家庭が多い。
当事者の固有名詞では無く、第三者的言語を使って呼び合うのである。
それに反して、個人名で呼びあう欧米人・夫婦で名前の呼び合うのは当たり前と文化の違いを見せ付けられても大した違和感は無いもの。
お客様のところにお伺いしていると子供が何々ちゃんと呼んでいるので誰かなーと思いきやお母さんであった。
それに対してお母さんが”なーにOOちゃん?“と自然に話しているのもうれしいことであるが、私にとっては少々違和感を覚えたのは正直否めない。
個性の時代!であれば、呼び名でも当たり前のことであるが、個を大切にした世界観が確実に進んでいる証明でもある。
呼ばれる方も、誰にでも使われる第三者代名詞よりも個人の名前を呼ばれたほうが,より直接的に響くのはわかっている。わかっているが、それでもお母さんを固有名前で呼ぶことには抵抗感を払拭できないのは私だけではないと思う。年代ものだと言われてしまえばそれまでの話でもあるが、きっと難しいことであろう。
私達の日常は様々な関係性から成り立っている。
重くのしかかってくる関係性から軽く見過ごされ、無関係の関係性までその尺度は千差万別でもある。
そして私達はその度合いが両極端に行き過ぎた地点に立った時には、受け止めることの出来ないほどの関係性から遠ざかり、又、距離感もよくガップリヨツに組める関係世界もある。
更に、表層で流されてしまう関係性まで、その結果はその人・モノとの関わり度で測られるものかもしれない。
関係性についてマルチン ブーバーがIch und Du(イッヒ・ウント・ドゥー「我と汝」)の中で言及している。ある出来事・事象との関係、又はある人との関わり方で、“我と汝”的に第一人称が第二人称的に関わっているのか?はた又、“我と彼”と言うように第三人称的に関わっているか?でその人との関係度の度合いが全く変わってくる。
むしろ大切な事象・人格との関係では、絶対に第一人称と第二人称の関係であるべきだと。
お祈りをする時にそうである。第二人称に捉えて祈るのと、第三人称的に捉えて祈るのでは、自分の意識が変わっているだけで無く、全く結果も変わってくることが多々である。
話を戻して、その場にいる関係が家族であれば、お父さん・お母さん・おじいちゃん・おばあちゃん・おにいちゃん・おねえちゃん・何々ちゃん。と呼べばその人を固有に指し示したことになる。
しかし、複数の家族がいたときに当事者で呼び合えば声で識別できるが、呼んだ人の声が似ていて、お父さんと呼ばれたとき多くのお父さんが自分かと思って振り返る。より不確定になる。
つまり、関係性はより個別的になるかどうかで測られる尺度と言うことになる。
何々のお父さん・どこそこのおじいちゃんと言えば固有呼称に近くなるが!
固有呼称で呼ぶとその事象・人の持つ環境・景観はより特定される。
現在は夫婦別姓法案が審議中でもある。固有名称はどこそこの何々と言うことでいち早くその人の情報を正確に得ることになる。情報キャッチにとても便利なことでもある。固有名称が時代の波であるとすればその波はどんな波なのだろうか?その波の後に残る残像形骸はいかようなものなのだろうか?
我が家・会社にそんな固有名称を持った懐かしいおじいちゃんがやってきた。
その名は“よいんどんの父ちゃん”である。姓は小熊さんと言うが家号が“よいんどん”又は“よいんさ”である。(以後、この紙面上は“ヨイドさん”ということにする。)
我が社のグループ会社であるタカモクの前身である高田材木店の時代に大変お世話になった人々である。
逆谷にすんでおられ、若い時から当社の材木の伐り出しに力添えいただいた方である。
原木の伐り出しには大変な労力が必要であり多くの人手が必要であった。それを取りまとめられていた親分である。今のように機械も発達せず、全てが人力に近かったから、大難儀な仕事であった。
逆谷:正式には 新潟県三島郡三島町逆谷であったが平成の大合併で 新潟県長岡市逆谷となり長岡市に組み入れられた。
私の親父が材木店を開いたのは60年前である。私が生まれた年である。
そして、後に製材工場を開設する。その製材工場を自前開業する前から山の木を伐りだしていた。
それは爺様の代から引き継いだものである。爺様は農家でありながら山の木を扱っていた。(余談であるが爺様と私の名前は同姓同名:何でも、その当時、分家である家の長男の名前は本家の爺様から貰う慣わしだったと聞いている。
ところが、私が生まれたのが年末の大繁忙期の12月30日であった。
手工業時代の年の暮れは現在では考えられないくらいに大忙しであったという。
孫の名前等考えている時間など無かった。そこで、“この忙しい時に生まれて!俺の名前をつけておけ。”で、私の名前は爺様と同じ“清太郎”と言う古めかしい名前になったと聞いた。
還暦を迎えた今では充分納得できるが、幼稚園・小学校の時は名は体を表さない貫禄モノであったのかもしれない。)
材木店・製材工場を起こしたが木材・丸太が無ければ仕事にならない。
丸太を製材して製品にするのが仕事であるのだから。
そこで、長岡の東山や西山の山毎、立木を買って伐り出すのである。その一つの山に逆谷があった。
脇の町から入った行き止まりの村である。
いたるところの山を相手に今で言う地杉を切り出した地産地消の時代であった。
繰り返すが、今のように機械化が進んでいない時代である。山から木を伐り出すことは大難儀であった。
冬になるのを待って雪のうえをそりで運び出す方法や夏であれば山から山へ鉄索と称したロープを張って、それに材木を取り付けて車の来る道まで運び出すのである。どちらも大仕事であった。
逆谷はじめ、東山での原木を伐り出した時代は私が小学生から大学生時代までのような気がする。(それ以降は日本の人件費は高くなり外材が多く入ってきて日本の植林は廃れてしまった。)車の免許証を取ってからは逆谷から東山の伐り出しにこられた人達の人夫運びの運転手もした。
帰りはいつも暗闇の山道を一人運転するのである。あまり、良い気分ではない。
月夜になると、同乗した“ヨイドさん”が“今日は出るかな?”私“何が?” “狐の嫁入りさ!山の中腹に綺麗に明かりがともったらそれが狐の嫁入りだ。今日は見られるぞ”・・・・・・皆して私をかまうのである。
私はそんな怖い話に付き合っていられない。
それでも怖さにまぎれて右山を見てしまう。その様に怖くって見たくない自分と見てみたい自分がいた。
そんな私を察するように、翌夜も余計にみんなが私をかまう。
そんなわけで帰路は一目散にスピードアップであった。
その地の人たちが本当に久しぶりに我が家の親父を訪ねてきた。
小熊さんと名乗るお二人に斎藤さんの3人である。
“ヨイドさん”こと小熊さんのお爺ちゃんは今年で82歳だという。
当時を偲ぶ筋骨隆々の面影いっぱいであった。頑丈で頼りがいのあるお父さんであった。丸太を楽々と一人で背負えるエネルギーを持っていたように思う。
その“ヨイドさん”の身体は大きい。対するうちの親父は小柄である。
並べば大きさの差は歴然としていた。この当時、私にとって最も印象に残っていたのが、大柄の“ヨイドさん”が小柄の親父に、かける言葉が「親方、今日の仕事の段取りはこれこれしかじか・・・・」「親方、明日も宜しく」「親方、・・・・」といつも、親父を呼ぶ時に「親方」と言って話を進める。何とも小気味良い関係であった。
当時、その小熊さんのお父さんを呼ぶ呼称が“よいんどんの父ちゃん」であった。
この響きも一言で私を当時にタイムトラベルしてくれる特殊キーワードであることは、今でも変わりないことであった。
屋号は“よいんどん”だからいつも“よいんどんの父ちゃん”と誰もが呼んでいた。:懐かしい響きである。
「よいんどんの父ちゃん」と耳に届くだけでその当時の風景と匂いが一瞬にして届いてくる。
ニックネームはその時代を特定〔立体的な状況把握〕するのにとても便利なキーワードであるばかりではなく、“名は体をあらわす”様にニックネームはその時代の風景・環境を一瞬に垣間見させる力を持っている。
オー!ノスタルジア。
それ以後、大病も経験されたと聞いた。ご高齢になられて一言一言に涙汲まれる親分を見ていると私も時の重みを感じて、心しみじみになってしまった。
何時までも何時までも元気であられる事祈念!又遊びに来てください。有難うございます。(新潟日報掲載コラム1)
*フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に拠ればマルティン ブーバーの思想は「対話の哲学」と位置づけられる。
対話の哲学とは「我」と「汝」が語り合うことによって世界が拓けていくという。
ブーバーによれば科学的、実証的な経験や知識は「それ」というよそよそしい存在にしか過ぎず、「我」は幾ら「それ」に関わったとしても、人間疎外的な関係から抜け出すことはできないという。
その「我-それ」関係に代わって真に大切なのは「我-汝」関係であり、世界の奥にある精神的存在と交わることだという。
そして、精神的存在と交わるためには相手を対象として一方的に捉えるのではなく、相手と自分を関係性として捉えること、すなわち対話によってその「永遠のいぶき」を感じとることが不可欠だとする。
”よいんどんの父ちゃん”良い響きだ 我が家の茶の間で記念写真 我が家の玄関前で記念ショット
昔の製材工場がプレカット工場に! モクード設計室にて