指をくわえないで手をくわえてください。
エッセイ
バカな壁VS見えない壁
前回は、経営コンサルタントの加藤誠先生の「見えない壁」についてちょっと触れた。
壁とは何か?遮断するもの?!守るもの?!反対からは障害物?!○○の壁と言うとミリオン・ベストセラーになった養老孟司東京大学名誉教授の著書「バカの壁」を思い出す。
「話せば分かる」なんて大ウソ!「人間同士が理解しあうと言うことは根本的に不可能」「理解できない相手をお互いにバカだと思う」が要点である。
価値観は多岐に渡り、決して一様ではない。そのことを分かっているから、だからと言って理解したことにはならない。理解できない存在。言葉さえ通じない存在が沢山ある。
地球外生物の存在はいると信じている人は多くいる。しかし、私達の思っている生命態とは全く理解を越えた形・生態を持っているとしたら感知できないことになる。実在として「いる・ある」のに理解する言葉を持たないから「いない・ない」のである。つまリ、理解を越えた存在を認識したくないのである。そして、認識できないのは存在しないのである。
デカルトの「われ想う故に我あり!」である。
学校の試験には答えがある。社会にでると答えは自分で探さなければ成らない。元々答え自体がないかもしれないのに。
人間が理解しあうには越えなければならない壁がある。又、元から乗り越えられない壁も厳然と存在する。
その結果、喧嘩になったり、戦争にもなりえる話しである。
正義は人の数ほどあるとも言われている。しかし人間である。一人では生きられない。共同体で生活するにはルールが必要である。ルールは見える壁である。
では「見えない壁とは?」一体何か?文字通り見えないのであるから壁が無いと勘違いすることになる。パントマイムを思い描くと面白い。見えない壁に向ってあたかも硝子があるかのように両手のしぐさで壁の存在を意識させるのである。見る側はそのトリックにはまるのである。
私は桂文珍のファンである。文珍師匠の現代創作落語に「老婆の休日」がある。ヘップバーンのローマの休日をもじったものである。病院に集まるお年寄りの話しである。何時もの顔が見えないと○○さんはどうしたの?風邪を引いたらしい。早く元気になって病院へ来るといいのだが????
そこに登場するヨネさん:ヨネおばあちゃんは身体のいたるところが痛い!私ももうおしまいだ!頭を触れば痛い!肩を触っても痛い!腹・足どこを触っても痛い!・・・・先生に診てもらったら指が骨折していたらしい。最後には人の手を握っても痛い!私もとうとう人の痛みがわかる人間になったと勘違いする落ちは面白い。
見えない壁の一つは、老婆の休日みたいな勘違いの壁である。様々な問題が山積する。しかし、原因は指の骨折であった。頭・腹・手足では無く!拡げて、その目に見えない壁は、自分側に原因があり相手側にあるのではなかったのである。
* 見えない声:聞こえない声VS見えない声我が政党は「見えない声」に耳を傾けます。どうか一票を○○政党に!と夏の参議院選挙にこだましそうである。声は聞こえると表現しなければおかしいのに“声が見える?”と表現する。聞こえない声であれば極々一般的過ぎるのか?
* 「見えない壁」は本来契約できたり、握手できるところが、その契約や握手を妨げようとする双方間に介在する壁である。その時には「指をくわえないで手をくわえ」なければならないことになる!
同じ“くわえる”でも「加える」と「銜える」では意味が大きく違う。
“手をくわえる”は対象物に積極的にかかわり、加工を施していくのに対して、“指をくわえる”は何もしない・出来ない状態を言う。
当然手をくわえれば片付くものが、指をくわえていては片付くものも片付かない。
語源は知らないが、一本の指では鍬はもてない。口にくわえるだけである。しかし、手となると鍬を持つことが出来る。大きな違いだ。(しかし、情報化時代は手だけで無く、指でも加えることが出来る。コンピューターは一本の指でも仕事は出来るではないかと言われることを承知していながら敢えて言わせてもらう)
決断したら、信じたら後ろを見ない。そういいながら決断すると同時に不安が同居申し込みをしてくる。情報多寡の時代!なにをしていても雑音が聞こえてくるものである。
特に住宅や建設投資には多額な資金が投資されるだけに尚一層のことである。不安は失敗したくないという想いの表裏一体をなすもの。
しかし、決めたら、信じて進む。不思議なことに不信が不安を生む元凶であることも知っていながら。確かに、「鋤(すき)に手をかけて後ろを振り向くものは神の国にふさわしからずや!」とバイブルにもうたわれている。
それでも、当然、価値のないものに投資はしたくない。これは真理である。価値とは絶対的というよりも、相対的な場合が多々である。例えば、巣舞いづくりの基準を坪単価だけを言う人がいる。何をどのようにつくっていくかは二の次:決断の判断基準からは遠くに置かれる場合がある。
間違いの多くは、巣舞づくりの価値を坪単価表示で表示するからである。坪単価は本来デザイン・工法・性能・資財・腕前・など等が積み上げられた総計を面積で割り返したものである。しかし、現実は各社各様に勝手に範囲を決めて坪売り競争を始めてしまっているところに悲劇がある。
ローコスト住宅の一つの売りは如何に手をくわえないか?一品一品を作るのではなく、規格化することが研究課題であるという。没個性化である。
これでは、今までつくり上げて来た個性ある巣舞いづくり・我が家だけ通じるすま居方・建築文化にとってはたまったものじゃない。
* この春ご契約させていただいたS様の巣舞づくりをするに当たって不安と心配はとても分かりやすいから、ここに紹介させていただくことにする。S様の目に見えない壁はいったいなんだったのか?
結論から言うと「高田建築事務所の建物は高い!」からという壁であったと言う。しかし、その後ご契約させていただいたので、S様からその辺の委細のお話を聞くことにしました。
S様:実は住宅総合展示場や個別展示場は述べ10数箇所、見て周った。疲れました。しかし、高田建築事務所の現場見学会には一度も足を運ばなかった。何故?かと言うと「高いと皆が言うから!」。又、自分達も建っている建物を見ていると高そうに見えるので。
T〔高田〕:どちら様のお住いの見積書を見られましたか?
S様:見ていない。
T:では何故?
S様:他社の営業マンが言っているから。
T:それではどうして、当社と契約に至りましたか?さしつかえない範囲で教えていただくとありがたいです。
S様:高田建築事務所に来る前に某建設会社との契約予定が決まり、へとへとになっていた帰り道に、高田建築事務所の見学会の看板が目に入った。夫婦で建設会社は決まったし、見るだけならいいのでは?と軽い気持ちでやってきた次第。絶対に営業マンとは目を合わせるな。話をするな。を合言葉にリプチの森のY様邸の見学会のドアを叩いた。エントランスに入った途端に妻が”私達の住まいだ“と一瞬にして思った。それでも入る前の約束事、出来るだけ話をしない。目線を合わせない。でやってきたのであるが、しつこくない営業マンと接しているうちに、様々に質問してみた。つくり方からコンセプト、工法などなど。金額に至ってもそんなに世間が言っているように高くはないではないか?契約時に私達の予算で充分出来ることがわかりました。そこでプランニングを一からやり直させていただき、契約させていただくことが出来た次第です。
思ったとおりの図面が出来上がった!とかなりの満足会見であった。
風評には良い風評と悪い風評があるのは当たり前。煽り立てる風評の前に是非とも現物・現地を視察して自分たち家族の目で観ることをお勧めしたい。目に見えない壁・思い込み・勘違いを払拭しえてみてください。我が家の個性ある豊かな巣舞いづくりのために!
人生一大事の仕事だから。
喜びのアンケートが届くごとに、このことを巣舞い作りの不安をいだいている人々にお伝えしたいと思っている今日である。
当社の巣舞いづくりの会社アッピールするとすれば!
「設計とは“すま居方”の追求である」居方を追求できるのは建築主様だけなのです。だから弊社では設計者は貴方です。私達はお手伝いするだけです。・・・と!
“指をくわえない”で“手をくわえて”ください。
勿論、巣舞づくりは人間の環境づくりであり、とても大切な位置する作業でもあることに変わりはない。
巣舞い作りの成功を祈って、いざ出発である。
「いつも喜んでいなさい・絶えず祈りなさい・全てのものに感謝しなさい。」とともに!
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