高田清太郎ブログ

ユトリを持たずに観たユトリロ展での発見



エッセイ

ユトリを持たずに観たユトリロ展での発見
(もっとユトりを持ってみればよかったユトリロ展)
二つの絵画展を見て:オルセー美術館展とユトリロ展である。

“貴方は誰の目を通して絵を見ていますか?”と自問する。
そして、勿論、私は“私の目を通して絵を観ています!”と自信を持って自答する。
“それは本当ですか?”と再問する。“本当ですよ!”と力んで再答する。
しかし、はたしてこの自問自答が正しいかどうか?私には良くはわからない。
そして、結論から言うと、私は私の目をすり替えているに過ぎないことに気がつく。
絵画は写実画であれば、画家の生きた、その時代・その場所・そしてその状況・思考を理解しなくてはとてもわかり難い。構図と色彩はそれだけでも楽しめるが、どんな目を持って描いたのだろう?といつも考えさせられるからである。そもそも、絵画を見るときに「わかる必要があるのだろうか?」と、ここでも自問自答するが。
抽象画なら最初から見たい様に観ればいい。と断言できるのであるが。そしてちょっとコメントを読んで!読んでも分からないから抽象画であると合点もいく。
絵画に限らず芸術鑑賞方法に解説型鑑賞と対話型鑑賞があるとすれば、わたしの絵画鑑賞方法は間違い無く解説付き絵画鑑賞であったことを告白せざるを得ない。
なぜなら、その絵を鑑るということは、観て楽しむ前後に必ず「その絵を理解したい!」という欲望があるからである。
芸術活動も芸術品も時代と共に進化しており、時の流れでしっかりと連繋もしている。決して突然変異の連続ではないからである。私ごとであるが、新しいものを創ったと躍り上がっても、よ~く振り返って観るとせいぜい5~10%の新味が加わっている程度であることが多々である。
二つの見方がある:一つは知識で見る。一つは感性で見る。そしてもう一つは知性+感性でトータルに見る。

*この夏2つの絵画展に足を運んでみた。
一つはオルセー美術館展2010「ポスト印象派」:〔国立新美術館〕、もう一つはモーリス・ユトリロ展(新潟県立近代美術館)である。
しかし、両方とも様々な条件が重なって鑑賞時間が限られていた。ほぼ一時間である。
出品作品数はオルセー美術館展2010「ポスト印象派」は115点でありモーリス・ユトリロ展は92点である。普段だと2時間~3時間くらいゆっくりと楽しんだのであるが、今回は両方とも時間がないスケジューリングであったからそれは出来ない。解説読んで絵を観るに所要する時間は一作品30秒~45秒ということになる。
そこで、今回は解説を読まないで、絵を眺めること〔決して鑑ることではなく〕に徹することにした。

*オルセー美術館展にいたっては連日の様に新聞紙上や雑誌他マスコミの取り上げられており、又、ご紹介の解説は様々な人の目を通してされていた。大人気である。館内は絵を観るよりも人を見に行ったような気がするが。絵を観る人を見る意義もある!?
展示構成は全10章からなっていた。
1.第一章:1886年―最後の印象派:印象派モネ・ドガ・シスレー・ピサロなど
2.第二章:スーラと新印象主義:新印象派スーラの点描技法はシャニックへと続く
3.第三章:セザンヌとセザンヌ主義:ポスト印象派セザンヌ
4.第四章:トゥールーズ=ロートレック:ポスター「ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ」
5.第五章:ゴッホとゴーギャン:フィンセント・ファン・ゴッホとポール・ゴーギャン
6.第六章:ポン=タヴェン派:ゴーギャンとベルナール
7.第七章:ナビ派〔預言者〕:ドニ・セリュジェ・ボナール・
8.第八章:内面への眼差し:ドニ・ボナール・ルドン・モロー・ヴィヤール・
9.第九章:アンリ・ルソー:素朴派ルソー
10.第十章:装飾の勝利:ドニ・ルーセル・ヴィヤール・ボナール
以上のようにどの章も魅力的であり何時間もかかるところである。
しかし、展示場入口の開催ご挨拶文の掲示のところから動こうとしない列が出来ている。これでは何も観ないで時間が過ぎそうである。焦りは第一章のクロード・モネの日傘の女性を遠めに見ながら足は第五章のゴッホコーナーへと歩を早めた。
私が最も会いたかった絵が「星降る夜」であったからである。
今から三十数年前に上野の西洋美術館で出会ったゴッホの「夜のカフェテラス」の前で足が動かなくなったことを覚えているからである。それまでに経験したことのない絵との対話である。解説文は何もいらなかった。
強烈な光:降り落ちる星の光:北斗七星のまばゆいばかりの光に!この度も、どうしてもゴッホの描く星の光に会いたくて。結局大半の時間をそこで費やしたことになる。遅々として進まない列に加わって、じっくりと観る。回り込んで遠くから見る。別の章を見て、再び帰ってもう一度列に加わる。
三度のパリ訪問でも会えなかった絵であるだけに、この企画展を大変感動した。

*モーリス・ユトリロ展(新潟県立近代美術館)はお盆休みの16日の閉館一時間前であった。
佐伯祐三のファンである私はその原流をユトリロに求めてしまっている。
モンマルトルのサクレ・クール寺院を様々な角度から描いているのも強烈な印象であった。
白の時代は私を捉えて放さない。それがユトリロだと!しかし、見識のなさで恥ずかしい話しであるが、今回のユトリロ展ではじめて知った。色彩の時代があったのだと。尻の大きな人物画はとてもファニーでさえある。
最晩年の作品である雪のサン=ヴァサン通り、モンマルトルの色彩は白の時代と色彩の時代が重なり合った優しい色合いが何とも言えないものとなっていた。
それにしてもユトリロは画商によって生きている最中から絵が高く取引されたのは幸せものと言って良いだろうが、本人は精神障害を負っておりお金の価値観を持っていなかったのは画家らしい皮肉と言っていいだろう。そもそも、ユトリロは、10代でアルコール中毒になり、治療のため、医師に勧められて絵を描き始めたことはよく知られている。
大変失礼な話ではあるが、解説を読まないで絵を観ていると自分の絵に対する鑑識眼がないのが良くわかる。絵のよさが自分の価値標準では分からない。猫に小判とはこのことである。
それでも時間があり解説を読みながらプロムナードすれば段々と味が出てきたものを!ユトリロを見るときはもっとユトリを持って!は絵画展に行く時の共通の注意点であることを知らされた。
私も一枚の絵を買うことにした:画商に聞いたら買えそうな値段であったから、買った絵葉書は「バイアン通り、パリ」である。
今私の机の上に置かれている。

       キーボードの横に”星降る夜ファイル” マイシップと高田号シップと”星降る夜” 小林秀雄の目を通してみたオルセー

                  
「バイアン通り、パリ」がパソコンの隣で鎮座する       実るほど頭を垂れる稲穂かな!