第18回APM大学校と12回APM企画展が開催される。
イベント
すまいは巣舞
巣は形・舞は想い
想いを形に
巣舞るフォー・ユー
高田建築事務所
*高田清太郎建築デザイン哲学展!* 私は先日こんな案内書を書いて投函した。
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* 秋山孝ポスター美術館長岡の企画展のご案内:
・ 陽春の候、築縁様の皆様にありましてはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。又常日頃は大変お世話になっております。有難うございます。
・ さてこの度、秋山孝先生(多摩美教授・APM館長)の仕掛けで、昨年の早い時期から「高田清太郎の30の金言+建築デザイン哲学展」を企画したいと言う申し出でを頂きました。最初は何のことやら理解が出来ませんでしたし他人事の様にも感じておりました。
・ しかし、準備もままならず“哲学展”と言うよりも“手付かず展”になりそうだとジョークを飛ばしておるうちは良かったのですが、時間は間違いなくやってまいりました。
・ APM(秋山孝ポスター美術館)が奇跡的にも2009年7月に開館して丸3年が過ぎ4年目に突入しております。築縁様の皆様からも毎年沢山のご支援いただき感謝申し上げます。
・ 2009年7月にオープンでした。“石の上にも3年!”と言います。当運営委員長の豊口協先生から3年目に入った企画展のオープニング時に頂いたご挨拶でした。石は3年でどの程度に温まったか?そしてそれはどの位の人々に、まちに影響を与えたか?
・ 確かに地域の上組小学校とAPMの関わり方はまちかど美術館となって継続されてきました。多摩美大と長岡造形大学と地域の繋がりはどの程度出来たか?こちらも徐々に出来つつあると言って良いでしょう。
・ 質問と言う形を取りながら時に検証したがる性癖が人々にはありますが、その度に覗いていたのでは折角温まった石が冷めてしまうこともあります。
・ その間、秋山先生とのお付き合いの中で様々な議論を楽しくさせて頂きました。同時に私のブログ(弊社ホームページ)をお読みいただき何か感じるところがあられ「高田清太郎建築デザイン哲学展」といういささか厳めしいタイトルになったようです。私自身は厳めしいと言うよりもこそば痒いと言った方が適切かもしれません。
・ と言うことで、不遜にも厚顔無恥に先生の申し出でを素直に受け取り開催することをお引き受けすることになりました。その間:ある時は企画展に耐えられるかどうかと悲観的になったり?そのことよりも先生の新しい切り口に自分を置いてみるのも面白いことだとスタッフの助言に従ったり、別の時には妙に楽天的になっている自分を発見もしています。
・ 私自身もまだまだ4月20日の企画展オープニング講演ではどのように行われるのか?全体像が見えて来ていないと言ったところです。当日にならないとどのように会が運営されるかも知らないからです。きっと、アドリブになるのだと思っておりますが。
・ もしお時間がありましたら秋山孝先生に切り口とお話を楽しみにおいで頂けると幸いです。
・ 最後になりましたが、皆様ご家族様の上にご健康とご平安をご祈念申し上げます。
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・ 偉く迷惑なご案内をお送りしたものだと今更ながらに感じ入っている。
・ 秋山先生はAPMをリノベーション建築当時に常々言っていたことを想い出す。僕は単なる美術館を作るのではない。そこでは地域に根差した教育が行われることが必要だと。大学校を開く。年に4~5回を目途にして。
・ そしてその構想は着々と実行されてきた。大学校も今回で18回開催であるから有言実行そのものである。
・ 地域の人に焦点を当ててその人の・家の・肖像をあぶりだしたい。と。
・ その一人が私の様であった。
・ 仕掛けに載って進んでくると少々景色が変わってきた。
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・ そもそも何故APMが開館したのか?秋山先生との関係はお互い宮内・摂田屋生れで、私の方が2年先輩(上組小学校・宮内中学校・長岡商業高校)である。先生は小さい頃から原木をたくさん積んだ我が家を知っており製材工場の土場遊んでいたこともあったと言う。秋山孝氏が多摩美で活躍されているということは木村先生(秋山氏を高校時代に美術指導された先生:当校から偉い先生が出られたと話も含め)からは聞いていたが直接面識を得たのはそれからずいぶん後のことである。8年程前に、当社で『リプチの森』という街づくりを始めた時に、キャラクターをつくろうとなりまして、それなら地元の秋山先生に依頼しようとなり、それからが本格的なお付合いの始まりです。
・ するとね、お互いにいろんなところで深く繋がっていたのです。町内の田上(たがみ)商店の、亡くなったおじいちゃんというのは、弊社の事を随分可愛がってくれて、とてもお世話になった方で、先生はその親戚筋だったのです。さらに、田上さんは旧北越銀行宮内支店の建物の所有者で、6年程前に手放したいから何とかして欲しいと頼まれました。手放せば確実に解体されるし、個人的には思い入れもあって、残したいと思っていたところに、先生がその建物で『APM』をつくりたいと言ってくれたのです。その時、先生の顔が田上のおじいちゃんの顔と重なり、何か沸々と湧きあがる思いに突き動かされ、先生を応援しようという原動力になりました。先生は言うんですね、宮内はキャンバスだと!