高田清太郎ブログ

一年に二つの告別式:夢ゆめにも思わなかった。



エッセイ

すまいは巣舞
巣は形・舞は想い
想いを形に
巣舞るフォー・ユー
高田建築事務所

お袋が呼びに来た?VS親父が押しかけた?
*    母が今年の6月23日に他界して5ヶ月と2日で父は追いかけるように他界した。11月25日9:14である。(孫子が見守る中で静かに息を引き取られた):満88歳であった。
・    普段からいつも二人で散歩をしていた。仲の良いおしどり夫婦の風景であった。
・    町内の話題でもあった。「いつも仲良さそうですね。うらやましい限りだと!」
・    お袋が視覚の前から隠れた親父はそれ以前の親父とはまったく違っていた。
・    対象喪失で自分自身をなくすると言う話も沢山聞くが、残念ながら親父の場合もご多聞に漏れずそのようであった。
・    結果として言うのであるが「お袋の不在の自宅はもはや親父の居場所ではなくなっていた?」のかもしれない。
・    今想い返すと、お袋に変わる何かで代償することは決して出来なくなっていたように思える。
・    そもそもの病気発症発見は喘息の定期検査でCTに写った影である。
・    肺に出来た6cmX4cm台の影を悪性腫瘍として考えるかどうか?その検査には大変な苦痛が伴うという。
・    88歳になった親父には酷な検査であるとドクターのお話であった。そして、年取った人の場合はそれほど早くは成長しないらしい。それでも一ヶ月後にどのくらいの成長なのかチェックするために1ヵ月後のCT撮影を予約した。
・    当日、CTを撮って診察時間を待つこと1時間ちょっと。
・    ドクターはCT撮影を見ながら、「1ヶ月間では大きさに関しては同じで成長はなし。大丈夫ですね?」と。喜ぶのもつかの間。
・    ちょっと待ってください。CT画面をスクロールしている先生の指の動きが止まる。
・    「これです!」と言われてみてみると反対側の右肺に白い点が渦を作っていた。「肺炎を起こしている・・・すぐに入院になります。」親父は一言「はい」
・    23年も先生から診察を受けていたので大変長い間お世話になった先生の言葉である。親父からはためらいの言葉は出なかった。
・    しかし、このときには家に帰れないとは親父も私も露ほどに思っていなかったのである。
・    治療には2週間から4週間見てほしいと言うことで入院手続きに入る。
・    しかし、入院してからは回復すると言うより、どんどん悪くなっていく一方であった。入院半ばでドクターから話したいことがあると呼び出された。
・    「親父さんは元気になりたいと言う生気を感じないがどうしてだろう?今迄20年以上も付き合ってきた清作さん(親父)とは全く違った人のようだ。」
・    お袋がいなくなってからはとても寂しがりやさんでした。と私はダイレクトに話すと、「それだな:清作さんが生きたいと言う生気を感じないのは。何とか元気付けて下さい」
・    それから、1週間見る見る間に衰えを見せる。そして入院から僅か2週間経たずに逝ってしまった。

*    人の死は生を考えさせる時でもある。
・    医療行為がどんなに進んだ社会でも寂しさを埋め合わせることが出来なかった時は生命が地上から離れることをとどめることが出来ないことなのかも知れない。
・    年が行った夫婦は奥様がなくなると旦那様は半年から1年以内に逝ってしまうことが多々であると言う。我が家の清作さん(88歳)は俊子さん(84歳)を追うかのように5ヶ月で逝ってしまった。正にそのことの証人である。
・    反対の場合(旦那さまが亡くなってから長生きの奥様の話は沢山聞いている)はそうではないことも多くの事例が証明しているのであるが。

*    急逝:この言葉を始めてかみ締めたような気がする。
・    もともと肺炎が発覚してから13日目であり、最終的には誤嚥肺炎で亡くなることになった。
・    お悔やみにおいでの方々は異口同音に「おばあちゃんが迎えに来たのよ!」と言われた。
・    しかし、親父の場合はどうしても違うように思える。しかも、この確信はかなり高いものである。
・    お袋は私に亡くなる前に、自分が先に逝くとは思わなかった。今までの長い人生の中で旦那の面倒を見てから自分は後で逝くと思っていた。と言うのである。そして、残す親父(おじいちゃん)の後を頼む!と言って去ったのであったから。決してお袋(おばあちゃん)は迎えにはきません。
・    むしろ、きっとおじいちゃんが「押しかけた!」と言った方が適切である。やはり親父にとってはお袋の居場所が自分の居場所だったからである。この確信は告別式を終えて益々大きくなる昨今である。
・    聖書の最初の創世記には「天は初めに天地を創造された。6日目に人を作られた。7日目に休まれた。人が一人でいるのは良くない。そこで助け手を作られた。男アダムの助け手として女エバが与えられたのである。
・    この箇所を読んで、一人合点してしまっている自分をおかしく思っているのである。詰まり、聖書的にも助け手としての女には旦那がいなくなったら助け手としての使命が終了する。後は開放されるから自由である。羽ばたける時間がご褒美に用意されていると思えることがおかしいが嬉しい。
*    創世記;1章一部と2章一部を転記:(聖書口語訳参照添付)
・    1:1 はじめに神は天と地とを創造された。
・    1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
・    1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
・    1:4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
・    ・・・・・中略
・    2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
・     2:19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
・    2:20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
・    2:21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
・    2:22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
・    2:23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。
・    2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
・     2:25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

*    親父の履歴と近況報告:家からお別れの挨拶!
・    生年月日大正14年:今年88歳の地上での旅を終えました。
・    昭和24年に結婚:私の誕生した年昭和24年に創業しました。
・    創業の苦労は並大抵ではなかったと推察します。夫婦でがんばってまいりました。
・    創業64年:私と同い年です。
・    現在の場所には昭和36年に製材工場を建築:爾来52年になります。
・    田圃の中にぽつんと建っていたような雰囲気です。今は、大変よい町になりましたが。
・    お袋が今年の6月23日に召天:それから5ヶ月2日の11月25日に同じく召天しました。
・    定期検査で肺炎だと分かり11月13日に入院し約二週間療養の後の25日に旅立ちでした。
・    とても早かったです。
・    皆様からは突然ですね。「やはりおばあちゃんが迎えに来たか?」と言われましたが、「おばあちゃんは、後はよろしく頼むなと言われましたので迎えにはきません。きっと「自分から押しかけたのです。」
・    近所の皆様:会社員:関係各位には大変長くお付き合い頂き感謝です。
・    いつも二人で散歩していました。外から見るととても中のよい風景でした。なはしの内容までは分かりませんが、ご想像に任せますが。
・    今日は工場内を回りながら旅立ちたいと思います。最後の工場内巡回です。

*    親父のことを語る時はお袋のことを語らなければお話できない。
・    お袋が信仰心が強い:キリスト信仰の純粋信者さんでした。
・    連れ合いを一緒の信仰に進めるのですが親父は当初は「神がいるなら俺の目の前に連れてきたら信じてやる」といっていましたが、見てからは「信じる」とは言わない。それは「確認」とバイブルは言っていると母!
・    しかし、やがて聞いたり見たりするのに加えてお袋の人生生活そのものの中に神様がおられることを確信するようになった。
・    信仰とは望んでいることを確信しまだ見ぬ事実を確認することである。
・    いずれにせよ。いつか母親の姿を見て、父は母の信じている神様がおられると想う様になった。
・    そして、ついに女房に連れられて教会:告別式の行われた会場の教会(長岡ルーテルキリスト教会:弊社設計施工)に通うようになったのである。
・    二人が並んで毎週の主日に同じ椅子に座って礼拝する姿はとても絵になっていた。(いまさらながらに気がついたぼんやり息子の独り言?)

*    2増2減=プラスマイナスゼロ!日本人口異常なし!親父のジョークが飛んできます。今年は我が家から二人がなくなりました。そして新しい二人の生命が誕生しました。
・    親父のジョークが聞こえます。三番目の孫が生まれて後おばあちゃんが召天・4番目の孫が生まれて後おじいちゃんが召天:
・    我が家の2013年は2減2増:日本人口に変更なし!と。

*    親父のプロフィール(親父の歴史)
・    生年月日:2025年(大正14年)10月6日生まれ:丑年:
・    2013年(平成25年)11月25日(月)9:14に天に召される。満88歳
・    父:高田清太郎と母:ヨキ.の4男1女の3男として生まれる。
・    新潟県長岡市曲新町に生を受ける。
・    結婚:1949年(昭和24年)2月:吉原俊子と結婚
・     2男1女(長男:清太郎:昭和24年生!次男:勉:昭和28年生!長女:優子:昭和33年生)に恵まれる。
・    先の大戦では衛生兵として習志野で訓練中に終戦を迎える。
・    終戦後は大工さんを目指しましたが、親の仕事(山から木を切り出す仕事)をすることで材木店への道へ進みました。父清太郎は農家をしながら山の木を伐りだしていたからです。
・    山からの伐りだしは現在の様に建設機械があるわけではなくすべて人力と馬力で対応していた。とても難儀な仕事でした。
・    そんなわけで誰も継ぎ手がいなく3男の清作が引き継ぎました。
・     結婚した年:昭和24年から木材業の許可を頂いた。夫婦共稼ぎであった。
・     山から木を買って製材業社に依頼して賃挽きしながら材木店を開業
・     自分の製材工場を持ったのは昭和36年:会社創業
・    昭和36年に製材工場大変ご苦労がありました。
・    毎朝は5時から工場に出かけ夜遅くまで仕事にする時代であった。
・     盆と正月にしか休暇の無かった時代です。
・    妻 俊子さんは熱心な純粋クリスチャンでした。連れ合いを一緒の信仰に進めるのですが清作は「神がいるなら俺の目の前に連れてきたら信じてやる」といっていましたが、お袋は
・    お袋の人生生活を見て神様を信じるようになりました。
・    ついに奥様に連れられて教会:本日の会場の教会に通うようになりました。
・    妻俊子はその後連れ合いの旦那をイエス様に導くための祈りはとても強かったからです。
・    本日は長岡ルーテルキリスト教会にて告別式をさせていただいたのはそんなためでした。狭苦しく申し訳ありません。でもとても想いのこもった教会です。

・    家柄と花火:もともと生家では花火師さんが花火の玉作り場として提供されていたから、高田家は花火大好き人間が多い!
・    創業当時から北越銀行宮内支店にも大変お世話になった。現在はAPM(秋山孝ポスター美術館長岡)にリノベーションされている。
・    親父の趣味:射撃・クレーと狩猟:鴨汁は高田家バージョン清作・俊子は絶品好評
・    クレーは国体選手に選ばれ位のレベルまであった。
・    仕事も一生懸命やったが趣味も大いに楽しんだ。
・    趣味のひとつに毎日の妻との散歩があった。町内中の評判のおしどり夫婦であった。

*    冗談好きで時に辛口のコメントに饒舌であった。
・    食べ物にかなりの辛口であった。
・    仕事の品質にもかなりの厳しさがあり、材料もしっかりと吟味するタイプ。
・    口癖は「高くても良い品質・良いものをお客様に届けよ!安くても悪ければ一蹴される!良い評判を得ることが大事だ。悪い評判が立ったらすぐに会社など吹っ飛んでしまう。」
・    創業の苦しみ:資金が無い(キャッシュフロー)毎月書き換えに銀行通い。
・    築大正14年北越銀行宮内支店の建築は現在APM(秋山孝ポスター美術館長岡)にリノベーション。

*    内村鑑三の一日一生:6月7日:死は人を癒す。