斉藤公男日大名誉教授の最終講義に参加して
建築/巣舞.間知.趣舞
すまいは巣舞
巣は形・舞は想い
想いを形に
巣舞るフォー・ユー
高田建築事務所* 斉藤先生を囲む会の皆様
・ 日本大学名誉教授 斎藤公男先生の最終特別講義が下記の様に行われますので、ご案内申し上げます。
・ 日 時 : 2014年3月3日(月) 17:00~18:30
・ 場 所 : 日本大学理工学部駿河台校舎1号館2F 121会議室
・ テーマ : 私にとっての50年 「空間構造デザインの系譜と実践」
・ なお、講義終了後の懇親会を1号館2Fカフェテリアで行いますので、参加してください。
・ ・・・・・
・ 上記案内メールが1月中旬に届いた。
・ 私はと言うと、すぐに参加返信メールを送らせていた。予定も何も確認しないまま。それほど私にとっては大切な重要事項であったわけでもあった。
* 大学進学を絶対反対していた親父が私に指定する大学と学部と学科を条件に辛うじて許可を出してくれた。
・ 高校を卒業したら直ぐに家業〔材木店:製材・建築資材販売業〕を継ぐことを願っていた親父である。当時大学に行った地元の先輩連中がそのまま東京で生活して帰郷しない情報が流れていた。
・ そんなわけで高校時代は直ぐ家業に役に立つ商業高校で過ごすことになる。そんな商業高校から同級生は文科系には沢山進学していた。
・ 理工系への進学の前例はないみたいであったので状況を知らない進路指導の先生からも進路変更した方が間違いないと助言を頂いた次第である。
・ 私自身にとっても理工学部への進学はかなりハードルが高かった。しかし、どうしても出された条件を飲まなければ進学は許可されなかったのである。
・ こちらからは一浪を条件に取り付けることが出来たことが良かった。
・ 勿論:商業高校出るのであるから簿記の一級資格〔商業簿記・工業簿記)・会計学資格・ソロバン2級は最低条件であった。
* そんな道を通りながら折角入った大学なのに進級すると共に建築に対する喜びを大きく膨らますことが出来なかった。
・ 今後の方向を決める為と気分転換に3年生〔1971年〕の夏休みに北海道自転車一人旅に出ることになる。予定は一ヶ月である。
・ にわかアルバイトで稼いだお金で自転車とテントを買い残った資金を予定日程30日で割り返すと一日予算が500円ということになる。
・ 一日は長岡から120kmの瀬波海岸でテントを張る。予算の関係上海岸沿いにテントを張るのが一番経済的であることも学んだ。そしてテント生活をしてはじめて自分のバイオリズムに気がついた。
・ それは、午後2時頃になると「今日の泊まる場所探しをするのである」夕方近くになってもまだ決まらないととても不安になるのである。
・ テントを張って横になると疲れから直ぐに眠ることが出来る。
・ あの薄いテント膜の中に包まれるだけで安心するのである。
・ 朝はどんなに早くっても良いのだが14:00には寝ぐらを決めなければならない自分がいる。
・ ・・・・・北海道自転車一人旅テント生活で巣舞づくりの原点に出会ったよう気がしたのである。
* そして後期授業が始まる。斉藤先生の講義で出会ったマイヤール設計によるサルギナトベール橋(スイス)のスライドを観せられた時に生まれた感動が建築に戻る力を与えてくれた。
・ (小林文治先生の英語テキストを使っての建築史授業にも登場するサルギナトベール橋)
・ 続いて映し出されたスライドは代々木室内体育館である。斉藤先生の師でもあられた坪井善勝先生の授業でもお話いただいた作品は今でも私の感動建築ベスト3に残っているのである。
・ 構造即デザインが一体化した作品は力の流れが美しくデザインされている。
・ 迷いが吹っ切られた。
・ 4年生ゼミ選択は当初意匠系研究室であったが急遽斉藤研究室に変更させていただいた。
・ その当時「流れ」と言う言葉に魅せられていた。人の心の流れ!空間の流れ!そしてそれを支えるストラクチャーの力の流れ!である。
・ ストラクチュラルデザインを学ぶ為には斉藤研究室しかないと!
・ 今までミストに包まれていた建築に対する方向がはっきりと見えてきたのはそのときであった。
* 斉藤先生との出会いが無かったら?と考えると感謝にたえない次第である。
・ 2002年に新潟日報朝刊で書かせていただいた68週分のエッセイ集を本にする時に先生から巻頭言を寄せていただいた。
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「発刊に寄せて」斉藤先生文を挿入
斉藤先生からのコメント 2002・11・30
日本大学理工学部建築学科 教授 斉藤公男
高田君がこのたび本を出すと言う事を聞いていささか驚いた。内容がエッセイ集というから余計にそう感じたのであろう。私の研究室はどちらかと言うと大きな建築空間を作る構造デザイン研究室である。サッカースタジアムとかコンベンションホールは得意とするところである。テンション構造・張弦張構造・ドーム建築等様々である。新潟県内では松代町立体育館や堀之内町民体育館を手がけさせて頂いた。研究室OBの人達は全国で建築の仕事を通して活躍してくれている。彼らの手がけた作品等が専門誌に紹介される事が多々ある。当然そこには建築コンセプトや様々な論文が掲載されるわけである。建築家が文を書くのは建築する事と同じくらいに得意とするところであるが、地方新聞の生活欄の連載と聞いて、なるほど高田君らしいと思った。
高田君は第一次石油ショックの年1973年(昭和48年)卒である。彼が私のゼミに入る時に少々変り種と思った事を覚えている。『もともとデザイン系を目指しているのに、構造を知らなければ建築家とはいえない。』とか言っていた。何でも当時は手探り状態の“流れ論を”力説していたような記憶がある。空間の流れの前には力の流れがあり、そしてそれらが合致するととても美しい。心の流れだとか?なんでも私が授業で講義した時のサルギナートベル橋(スイス・マイヤール設計)のスライドを見て感動したと言っていた。私が講義した時の研究生の中ではユニークな視点を持っていたような気がする。
10年位前に日本建築学会全国大会が新潟県であった時に高田君の作品を見る事が出来た。長岡市役所近くにある長岡ルーテルキリスト教会である。“ゆきんこペンギン教会”とか面白いネーミングがついていた。空間もまーまーよく出来ていた。(新潟県建築士事務所協会のコンペで優秀賞を貰ったとも聞いた。)
高田君はもともと材木屋の倅だから手がける建築用途は木構造をデザインした住宅がその大半以上だと聞いております。研究室時代の研究課題が住宅作品の中にも反映される事を楽しみにしています。出版を契機に益々のご活躍を祈ります。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・今でも読み返すとうれしいコメントであった。宝としたい。
* とても精力的に建築〔教育・設計活動〕に取り組まれている先生を支えている奥様はじめご家族の皆様はとても素敵だ。
・ 家族思いの先生の作品がダイナミックであると共にとても優しくもある所以である。
・ そして何時までも若々しいのだ。趣味のスキー・テニスはプロ級!
* 講義本体についてはこのブログではとても語り尽くせないものがある。
・ 先生が空間構造デザインに進み花を咲かせていかれる歴史を時系列にお話くださった。
・ すると走馬灯の様に当時が私のまぶたの中に映し出されたのである。私達のゼミ年代の年に先生は世界一周旅行に出かけられたのである。
・ ゼミ学生達に課題と宿題をどっさりと置いて。先生が帰ってこられるまでに課題と確りと取り組む意欲は反比例するかの様に意外に大きかった。
・ 出かけられる前に先生がまとめの手法として私にサジェスチョン下さったのが、1967年に出版された川喜多二郎著の「発想法」であった。所謂KJ法と呼ばれるものだ。副題に「あなたも作家になれる」とあった。まさに私は錯覚してしまった。しかし錯覚の力も大きい!
・ 先生からのこのサジェスチョンはとても私を助けてくれた。気になること、感動空間などを勝手気ままに描き続けるのである。そして整理していく手法である。
・ 会社を開設してからこの手法は継続された。「放題紙の巣舞」である。物語づくりの巣舞づくりである。
・ また、その時代に海外旅行で描かれた斉藤先生の珠玉のスケッチたちが後にスケッチ特集として出版されている。是非とも手にとってご覧いただけたらうれしい。
・ 講義を聴きながらそんな時代からの今日までの私にとっての建築との付き合いを重ねることが出来た。
・ 学生運動真っ盛りの時代:夢を持って建築に進んだわけでもない私にとってはメランコリックな3年生!迷いの時に私の方向を応援してくれたのが先生の講義であった。
* 受付で渡された資料「空間構造デザインの潮流と実践-私にとっての50年」は講義の要約でもあるから転載させて頂く。
・ 学生を相手にする講義は終講と聞いたが先生の活動はまだまだ続く。特に先生が建築学会会長をやられている時に始まったアーキニアリング・デザイン展は日本各地を周り今度は海を渡って中国で開催されると聞いた。
・ 1時間半の講義はあっという間に過ぎた。参加者は至福の時間をすごしたのであった。
・ 用意された200客の椅子では足りなく聴講者は300名近くになったと報告があった。会場は熱気で包まれていた。きっと誰もが思ったことだろう。「先生からは講義を継続してほしい!」と。
・ ラストレクチャーではなく先生の益々のご活躍をご期待するものである。
* 講義の中での名言集
・ ラストはスタートともいう!講義の最後の一言は先生の今後意気込みが感じられた。
・ 人生を振り返って、追い風ではなく、向かい風こそ飛躍できる!ジャンプ競技もそうだ!
・ 模型の力には凄いものがあった:コンピューター技術がまだ発達していなかった時代であれば尚更である。
・ サラブレッドの構造をつくる時代!であった。その後ポストモダーンの時代に入ることになる。
・ 時代は「構造表現時代」から「形態表現時代」そして「Archi-neering時代」へ。
・ 建築は芸術・技術・科学・工学が織り成す世界!
・ アラップの言葉:エンジニアデザインは科学より芸術に近い!をご紹介。
* 先生からの依頼で何度か大学で講演をさせていただく機会を頂いた。
・ 私だけではなく、スタッフまでお呼びいただいたことを宝にしたい。
・ 又弊社の記念講演会やAPM大学校でも話を何度か頂いた。いつも感動である。
・ いつか、先生自身の自分の肩書きはどう思うか?と聞かれたことある。ストラクチュラルデザイナーでは?と返答したことがあったように記憶しているが、その枠ではおさまらないことが直ぐに判明する。
・ 先生の肩書きは?
・ 大変なロマンチストであり「夢語り人!」「夢実現者!」である。
・ 最後に、1960年に斉藤先生が卒研に取り組む時に坪井先生に「君は何がやりたいのかね?」と問われて「構造とデザインの両方を一緒に勉強したいのですが・・・」と記されていた。当時の建築学は意匠系と構造系そして設備系に分かれていた。そんな中での言葉であった。
・ 不敬にもお許し頂き「先生のこの言葉こそひと回り違いの私が建築に目指していたものであった!」と。
・ 先生からは益々にご活躍をご祈念申し上げ、講義いただいたこと感謝申し上げる次第である。